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連載第4回 論理的思考力は何からできているのか?

塾長の独り言 連載第4回 論理的思考力は何からできているのか?

ひと口に思考力と言いますが……

 単に「思考力」と言ってしまえば、それは「考える力」のことですから、そんなものは誰にでもあります。連載第3回「算数は何のために勉強するのか」でも触れましたが、すべての人間は「考える」宿命から逃れられません。単純に程度の問題だということではないのです。それを言うなら、センスや勘や経験だけで高度に思考し、結果として的確な判断を下せる人間もいます。

 ここでの思考力というのは、感覚や勘に依存せず、物事の有り様を客観的に正しく把握した上で、それをもとに矛盾のない理屈を演繹的に積み上げて新しい結論を生み出していこうとする力、つまり「論理的思考力」のことです。思考の入り口で感覚や勘を働かせることには何の問題もありません。しかしそれだけを前提にして結論を導くのは論理的思考力によるものとは言えません。

嘘つきのパラドックス

 例えば…むかしわたしは、次のような問題を黒板に書いて子どもたちに考えさせたことがあります。小学3年生の彼らは、同年齢の平均レベルをはるかに凌駕するような優秀な子たちでした

 

 太郎くんがこう言いました。

 「じつは、ボクはウソつきなんだ…」

 さて、太郎くんはウソつきでしょうか? それとも正直者でしょうか?

 

 有名な「嘘つきのパラドックス」ですね。子どもたちは口々に答えました。「正直者だよ。だって自分のことを嘘つきだなんて言える人は良い人に決まってる!」「いや、ウソつきだろう。自分で嘘つきだと言ってるんだから」等々…。

 と、そこへ遅れて入ってきたY君といういう子が黒板を5秒ほど眺めたのち、ぼそりと呟いたひと言が…

 

「あり得ない。この問題はおかしい」

 

 わたしは驚きのあまりしばらく何も言えなかったことを、今でも忘れません。わたしはY君に尋ねました。

 

ーーえ、それはどういうこと?

  ーー嘘つきでも正直者でもない人なんていないでしょ?

 

ーー嘘つきでも正直者でもない人?

  ーーだって太郎君はどっちでもないってことになるでしょ?

 

ーーどうしてそう考えたのか教えてくれる?

  ーーいいよ。まず太郎君がウソつきだとするとさ、「僕はウソつきだ」ってのもウソだよね。つまり太郎君はウソつきじゃないってことになる。じゃあ太郎君が正直者だとしたら、「僕はウソつきだ」とウソをついていることになるから、太郎君は正直者でもない。だから太郎君はウソつきでも正直者でもないってことになるんじゃない?

 

 そう、この問題は論理的に解決することが不可能なのです。ほかの子どもたちの思考力が欠けていたわけではありません。ただ彼らは、主観や思い込みを前提として結論を導いてしまい、この問題を客観的な理屈を使って考えることができなかっただけなのです。その一方でY君の説明は、見事に矛盾なく筋道が通っていました。

 ちょっと分析してみましょう。

 

①.太郎君は「ウソつき」か「正直者」かのどちらかである。

②.どちらなのか解らないから、まずウソつきだと仮定してみよう。

③.すると太郎君のセリフの内容の反対が真実となるべきだ。

④.したがって太郎君はウソつきではないということになり、

⑤.②の仮定と矛盾する。だから太郎君はウソつきではない。

 

⑥.そうであれば太郎君は正直者のハズである。そう仮定してみよう。

⑦.すると太郎君の「僕はウソつきだ」という発言は「ウソをつく」行為であるから

⑧.ウソをつく太郎君は正直者ではないことになり

⑧.⑥の仮定と矛盾する。

 

⑨.⑤と⑧の結論は、①の前提と矛盾する。

⑩.したがってこの問題自体が成立しない。

 

…というわけです。そう思考した上でY君が呟いたのが「この問題はおかしい」という言葉だったのです。 これこそが論理的思考です。

 いかがでしょうか? この複雑なパラドックスをY君はわずか数秒で看破しました。まあ、こんな芸当をあっさりやってのける子です。案の定、Y君は算数オリンピックのある部門における全国大会で金賞を受賞したわけですが。

 

論理的思考力は何からできているのか?

 さて、今日のお題。「論理的思考力は何からできているのか?」その答えはもう見えています。

 

 それは「理性的な言葉」です。

 論理は英語でロジック(logic)と言いますが、その語源はロゴス(logos)という言葉です。そしてロゴスという言葉には「言葉・理性」という意味があります。それが示唆するように、論理的思考力というのは、言葉を理性的に正しく操ることで物事を客観的に認識し理屈を組み立て、それによって自分や他人を納得させる力のことなのです。

 Y君は言葉を理性的に用いて誰にも否定することのできない結論を導き、言葉を理性的に用いてわたしを納得させた…ということだったのです。ほかの子どもたちの失敗の原因は、明確な根拠のない、非理性的な主観や感覚に依存した言葉を用いて思考してしまったところにあったわけです。

 

 論理的思考力には、洞察力や記憶力や知能の高さも無関係ではありません。そうした資質があれば、当然ながら論理的思考をスムーズに行う大きな助力となるでしょう。Y君のように、ごく短い時間でも複雑なパラドックスを解明できるかも知れません。でも、それらは論理的思考力の「原材料」ではありません。多少の遠回りをしたとしても、あるいは時間がかかったとしても正しくゴールにたどりつけるのは、唯一「理性的な言葉」の力によるものなのです。

 

子どもたちが理性的な言葉で話せるように…

 では、子どもたちが理性的な言葉を使えるようになるために、周囲の大人はどうすべきか? 論理的思考というのは幼い頃から養われる「心の習慣」です。わたしは、授業の中で子どもたちと接する時に、以下の4点を特に気をつけています。

 

①大人が子どもに対して、いい加減な言葉を使わない。

 主語や述語あるいは「てにをは」をきちんと意識して、ゆっくりと話しかけることを心がけるべきです。それが物事を秩序立てて把握する習慣につながります。

 

②思考を停止させるような押し付けを行わない。

 「みんな宿題をやってるでしょ。だからあなたもやりなさい!」…これはもう、様々な意味で最悪です。論理もへったくれもありません。子どもは不服そうな顔をして終わるだけです。「あなたが宿題をやらないとママが怒られて恥ずかしいのよ。だからやって欲しいのだけど…」この方がずっとマシです。

 

③子どもが発言する機会を絶対に奪わない。

「大人の話に子どもが口を出すな」とおっしゃる方にお目にかかったことがあります。わたしは憤慨してその方に言いました。「大人が子どもの未来を奪わないで下さい」と(笑)。というのも、発言する行為が能動的に行われた場合、それは多くの場合において相手を納得させようとする意図が前提にあるからです。その機会を奪うというのは論理的思考力を養う機会を奪っていることに他なりません。むしろ状況に応じて、どんどん発言させるべきなのです。連載第2回の中で、「思考のアウトプット」の重要性を強調した理由はそこにあります。

 

④先回りをして話をしない。問いかけによって会話を進めること。

「あくびをしたり、頬杖をついて授業を受けちゃダメだよ。先生に失礼でしょ」このように言われたら子どもは「うん」と答えるしかありません。思考のアウトプットの余地が何もないのです。わたしなら、こう問いかけます。「授業中にあなたがあくびをしたり頬杖をついていたら、先生にはどう見えるかな?」と。もしかすると、その先で「礼儀は必要なのか」などということを考えるきっかけになるかも知れません。

 

論理空間で遊ばせよう…

 オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、理性的な言葉によって構築された領域を「論理空間」と呼びました。なんてステキな言葉でしょう。この「論理空間」というものに思いを馳せると、わたしはワクワクします。この領域の中で羽を広げて遊び回っていれば、何か1つの真理にたどり着けるのではないかという気がするのです。

 

 算数というのは、こうしたワクワクを味わうための1つの手がかりにすぎませんが、もっとも重要な手がかりかも知れません。子どもたちが、このワクワクを味わうために算数を手がかりとして論理空間の中へ集まってきてくれると良いなあ…とわたしはそんな風に思います。



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