塾長の独り言
連載第3回 算数は何のために勉強するのか?
名探偵 明智小五郎は…
少年時代に大好きだった江戸川乱歩の小説に登場する名探偵「明智小五郎」は、仕事の息抜きに数学の問題を解いていたそうです。またWikipediaによると、明智小五郎は、証拠の科学的な検証は「好きでない」として専門家に任せ、論理的演繹によって犯行や犯人をあぶり出すという探偵手法を取っていたとのことです。論理的演繹(えんえき)というのは、ある一つの事実や前提をもとにして理屈を順番に積み上げて結論を導くという思考の仕方です。つまり彼は、結果を見て物事を判断する(演繹に対して、これを帰納と呼びます)のを嫌い、理屈によって導かれた「正しさ」こそを何よりも愛していたということなのでしょう。
もう一つの思い出
こんなことを書いていて、また一つの記憶がよみがえってきました。十数年前の教え子にO君という子がいました。彼は中学受験勉強というものについて、こう語っていました。
「中学受験勉強なんて本当の学問じゃないと思っています。そのものは無意味です。それでも僕は我慢して受験勉強をします。それは開成中学に行って、本物の学問を志すためです」と…。そうして開成中学に見事に合格したO君は、イヤでたまらない受験勉強の合間の息抜きとして…あの明智小五郎と同様に算数の問題を解いていたというのです。わたしはO君に尋ねました。
ーー算数はイヤじゃなかったのかい?
ーーはい。算数は愉しい。それだけで意味があります。
ーー算数のどんなところが愉しい?
ーー限界がないところです。
ーー思考には限界はない…ということかい?
ーーはい、そうです。1つの問題でも、考えることは無限にあります。
ーー算数は、将来何の役に立つと思う?
ーーさあ…。算数が役に立つことなんて何もないと思います。
O君は、小6にしてすでに非常に達観した物の見方ができる子どもだったのだと思います…。
世の中では、算数は…
算数は何のために勉強するのか?
世の中では…
「算数を勉強することで、物事を論理的に捉えられるようになる。」
「算数で論理的に考える力を養っておけば、大人になっても目の前の問題を解決するのに役に立つ」
といったことがよく言われています。
でも、ごめんなさい。わたしにはよく分かりません。
わたしが物事を論理的にとらえようとする人間なのは確かですが、それが算数や数学のお陰なのかは分かりません。
また、算数や数学を学んできたことは、わたしの人生の問題を解決するのに役に立ったのか? そうかも知れないし…そうでもないような気もするのです。O君が言ったように、わたしの人生において算数なんて何の役にも立たなかったのかも知れません。何かの役に立てることを目論んで算数をやろうとしたこともありません。
「算数や数学を続けてきたのは、ただひたすらに愉しかったから」という答えしか思い浮かばないのです。
算数好きは変人か?
算数が愉しいと思える人は特別なんだよ…という声が聞こえてきそうです。しかし…
いいえ、違います。
フランスの思想家ブレーズ・パスカルがいみじくも言ったように、人間は「考える葦(あし)」です。考えることを宿命として生まれてきた動物です。あらゆる人間は、考えることが愉しいと思えるように出来ています。考えるものが算数ではなくても、人間は人生の中で色々なことを悩んで考えます。就職・恋愛・仕事・結婚・育児…。そうした事柄についてあれこれ悩んで考えた末に1つの解決策にたどり着いた時に味わう、ある種の爽快感…。あれこそが、人間が「考える葦」たる所以です。人間は生きている限り、何かを考えて答えを出すことに愉悦を感じてしまうものなのです。
算数や数学では、考えるための道具として「論理」だけが正当性を持ちます。感覚や勘だけで導かれた答えは許されません。子どもたちが算数を愉しいと思えるようになるかどうか。それは…成長過程にある子どもたちに対して、周囲の大人が論理的思考を適切に育んであげられるかどうかにかかっている。ただそれだけのことなのです…。
わたしの結論は…
さて、わたしの結論です。もう一度、問います。
算数は何のために勉強するのか?
そこには目的などない。ただ愉しいから。
そう思い始めた瞬間から子どもは、無限に思考することを自ら引き受けるようになるでしょう。…わたしは…1人でも多くの子どもがそんな風になってくれることを心から願っています。
算数塾Arith責任者 斉藤太郎
→次回に続く